75歳の位置づけ

若い頃は人生の行き先を考えるとき、会社では5年から10年先輩の動向を参考にした。出世の先頭を切る先輩に憧れたものだ。40歳代後半から50歳代になり、会社でトップになることを考えるのは現実的ではないと知り、自分なりに次の職業を得る努力をした。それが私の場合には学会に論文を投稿して実績を積み重ね、大学から工学博士号を得ることだった。それなりに大変だったが、一応この作戦は成功し大学教授としてつとめることができた。大学を定年後、現在は小さな会社を経営している。自分に出来ることは通信とIT関連なので、その範疇でビジネスを作ることが出来ないかと暗中模索を続けている。75歳になった現在、テレビや新聞で報じられる有名人のご逝去年齢が、自分より若いことに戸惑いを感じる。最近は輪島が他界したと報じられた。力士は若い頃に体に大きな負担をかけるので短命なのかも知れない。本日の朝刊一面には仙谷由人氏が72歳で肺がんのため死去したと記されている。肺がんと聞けば政治家は我々の年代ではタバコの吸いすぎが多いから、有りそうなことだと思う。報道されるような有名人であればストレスも多かろうから若くして他界するかも知れない。他人事のように考えたかったが、同じ町内に住む何回か会話を交わしたことのある60歳代の男性が先日亡くなった。直前までお元気で、一月前にはジョギング準備で門前で準備体操をしていた私に声をかけてくれた。こうなると訃報を聞くことで否応なしに自分が天国に召される予定について考えざるを得なくなる。こればかりは自分のこととしてスケジュールを立てることができない。出来ることは一日も長く自立して生活し、子供に負担をかける期間をなるべく短くしたいと神様にお願いすることである。日頃から不信心の身勝手なお願いを神様は受け入れてくれるかどうか。人間は生まれるときと死ぬときは周囲の人のお世話にならざるを得ない。ケセラセラ・・・・。一日一日を大切にしなければ。

人生最後の車選び

小さい頃から車は憧れだった。道路を挟んだ向かいの家にはガレージがあり、米国製のダッジがデンと構えていた。一度ほど乗せてもらったと思うがうらやましかった。小学校へ電車で遠距離通学していた。途中にクラスメートの親が経営する写真屋があった。写真屋さんはダットサンを持っていた。学校の体育で右足足首を捻挫したとき、親切にもそのダットサンで通学の送り迎えをしてくれた。大学受験で希望大学に合格したら何が欲しいと父親に聞かれ、クラウンと答えた。当時の我が家にとっては車は高嶺の花だったが、父親は息子に目標を与えて受験に努力させたかったのだろう。一浪して合格すると母親が言った。「車を買うと無理な約束して、お父さんは!」それでも父は中古のコンテッサを買ってくれた。コンテッサは走行中にしばしばトラブルを起こした。キャブレターからガソリンが噴き出すのである。道路脇に停車してキャブレターを分解掃除するのも「またかっ!」と思ったが、それなりに楽しかった。新車を買ってくれたのはファミリアが最初だった。一人暮らしをはじめて購入した最初の車はホンダ中古の軽だった。名前は忘れた。フランスに留学したときも車を入手した。借家アパートに近所のチラシが入る。フォルクスワーゲンの中古を紹介していた。確か5万円以下なので、それを購入した。この車は走行中にエンジンのクランクシャフトが折れた。修理工場に持って行ったら、修理は不可能と言われた。

結婚してからはまともな車を購入するようになった。最初はホンダアコードのハッチバックだった。家族4人で上越にスキーに出かけたとき、帰宅時に高速道路上で故障が発生してJAFに救援をお願いしたことがある。子供が大きくなるとワンボックスカーが旅行に便利と考えた。家族5名で旅行するときも荷物が多くても気軽に積み込めるからである。ラルゴを使っていたとき足が不自由になった母親をリハビリ病院や整形外科にしばしば運んだ。母親曰く「この車は乗り降りが大変だ。」そこで、床の低いワンボックスカーを選ぶこととして、エスティマを購入した。ハイブリッド車がどのような走りをするか大変興味があった。エスティマハイブリッドと指定して販売店で見積りをお願いすると「お客さん。ハイブリッドは80万円も高くなりますよ。ガソリン代でこれを回収するのは8万キロ以上走ったときですよ!」お客が希望しているのに「アホだ!」と言わんばかりの接客なので、他のトヨタ販売店に行ってエスティマハイブリッドを契約した。現在乗っているのはエスティマハイブリッドである。「80万円を回収するぞ」と約10年かけて10万キロを走った。

最近2時間ほど運転して自宅に戻り車を降りたとき、強烈な目眩を経験した。結局救急車のお世話になり緊急入院したが、ほぼ点滴と一泊だけで退院した。新聞では高齢者の自動車事故が頻繁に報道されている。高齢者の自動車が凶器になる事例を目にして、車選びも考えざるを得なくなった。自分が加害者になることを極力避けなければならないので、最近の自動ブレーキを備えたエスティマが販売されるのを待った。高性能な事故回避機能を備えた車は色々有りそうだが、運転に慣れたエスティマで衝突防止付を選びたい。契約してから2月近く待ったがまだ納品予定日の連絡がない。新しい車は10年間は使うつもりである。現在75歳なので85歳まで運転しているかどうか疑問符がつく。安全な自動運転車がエスティマで出現したら是非試してみたいと考えている。

協力的市民を裏切った浦安市の液状化対策工事中止

本日平成30年7月18日に浦安市長名で郵便物が届いた。「舞浜三丁目・・街区の市街地液状化対策工事に係る再同意確認の結果について(通知)」である。「・・・その結果、全ての宅地所有者の同意が得られなかったことから、・・・事業を再開することは出来ないとの結論に達しました。」とある。東日本大震災で浦安市が液状化で全国に知れ渡り、それから延々と7年間も浦安市が積極的に住民を口説いて液状化対策工事に協力を求めてきた経緯がある。最も浦安市に協力的だった舞浜三丁目の四つの街区では既に道路に工事用の穴が掘ってありそこに覆工板が何年も被せてある。また住民負担の資金は既に半分市役所に振込済みである。資金は振り込みで返金すると手続き書類が同封されているが、何とも後味が悪い。

当初浦安市役所復興事業課は実に積極的に啓蒙活動を繰り広げた。各街区の地層の構造を説明し、工事が如何に効果的に震災の振動を防ぐかを丁寧に説明してくれた。我々の街区では復興事業課の仕事ぶりに感謝し、是非協力してみようと住民が意識を高めた。その結果他の街区に先駆けて工事が開始された。

雲行きが急激におかしくなったと感じたのは当初想定されていなかったドレイン材が埋め立てに使われていたことが分かってからである。ドレイン材が埋まっていても工事ができるようにするには、従来想定していた土木工事機器よりも大型の装置を使わざるを得ないという。ほぼ2年前にはそれまで設置されていた工事機器が撤去され、工事の気配がないまま時間が流れた。世の中はオリンピック関連工事で建設工事現場の人手が不足しはじめた頃である。液状化対策工事を積極的に受注しようと活動していた前田建設のデモ現場を見せてもらったことがある。この業者も何時の間にか姿を消した。前の市長から内田市長に切り替わった時期と同期している。

工事を継続するには対象街区の全員100%の同意が必要であると浦安市は主張する。我々が知っている範囲では95%以上の住民が液状化対策工事を希望している。それにも関わらず内田市長名で「工事中止」の通知があった。7年前に液状化が発生し、浦安市が積極的に協力を求め、それに真っ先に協力した舞浜三丁目の四つの街区は見事に浦安市に裏切られた。これほどの裏切りを平然と行う浦安市には何が起こっていたのだろう。邪推すると工事業者に工事中止を説得されたとしか考えられない。正義の味方、週刊新潮、週刊文春に期待したい。

 

75歳の誕生日

6月10日は「時の記念日」そして私の誕生日だ。新聞を見ても「時の記念日」についての催し物などの記事は見当たらなかった。年齢を重ねると時間の流れに人生が大きく左右されていることが良く分かる。家内の古くからのフランス人友人夫妻が数年ぶりに訪日し、夕食会に招いてくれた。葛西臨海公園内のホテルで久しぶりに話した。ご主人は78歳で大企業で働いたあと退職し、ニースとパリに自宅を持ち、孫は10人程で、今は庭の手入れと週に1回のフランス語授業をしているという。生徒は5名ほどで移民としてフランスに入国し、仕事を得るためにフランス語の勉強中であることを証明してもらわなければならないのだ。テストで能力評価をするわけでもなく、授業を受けていれば良いらしい。「今は何か仕事をしているか?」と質問され、「小さな会社をやっています」と返事したら、「その歳で仕事をしているのは立派」と言われた。「しかし会社は赤字続き」と返事をしたが、この年代は何か仕事をしている、あるいは出来ているかどうかが常に気になる。同時にご主人との会話にも年代を感じた。私の顔を見て昔と同じだと印象を話してくれたが、「自分は耳が遠くなった」と最初に日本語で紹介した。会話は英語、フランス語と時たまの日本語でやりとりするので、言葉が通じないことに耳が遠いが加わると結構複雑なことになる。それでも長年の友人に久しぶりに会えたので楽しく会話した。時代は子供世代から孫世代に移りつつある。45年前にフランスから大阪で長女の出産を控えていた新婚の妻に電報を打ったときの話を紹介した。郵便局に出向き窓口で電文をアルファベットを並べて作成した。料金はワード数で計算されるので、なるべく日本語を連続させて経費節減した。現代は子供が外国人と結婚して外国で生活しているのが珍しくなくなった。スカイプで簡単にしかも無料で顔を見ながらお話しができる。人と人とのつながりが大きく進歩した、という時の流れと技術の展開を経験し、第二次世界大戦後に平和な世界が続いたことに感謝したい。

公園の散歩

妻が外科手術を受けてから5週間、退院し自宅でリハビリ生活をはじめてから2週間半が経過した。入院前は脊髄の神経が腫瘍で圧迫されて歩行困難だったが、日々少しずつ回復している様子が分かる。入院前には足の筋肉を鍛える目的で近くの公園を散歩していた。退院後もリハビリ目的で同じ公園を1時間ほど毎日散歩している。入院前の公園散歩は病院での手術後のリハビリ回復が順調であったことから効果があったと感じている。お陰でリハビリ病院への転院をせずに自宅でのリハビリとなった。自宅療養での介護世話係は私である。幸いトイレ、シャワー、階段の上り下りは家内が一人でできたので大変助かった。胸骨付近の脊髄を外科治療したのでコルセットを常時着用しており、この状態は手術後3月経過する6月に予定しているMRI診断まで続く。自宅リハビリ生活で妻は毎日近くの公園散歩を楽しんでいる。転倒の心配があるので原則付き添っている。天候は暑さ寒さの変動が激しいが幸い天候に恵まれている。雨が予報された日でも雨雲の動きをネットで調べ雲が空を覆っているが雨が降らない時間帯に散歩している。入院治療中には桜をはじめ公園で様々な花が綺麗に順に咲いていた。今は緑が濃くなり芝生の刈り込みも行われた。公園の後ろ側にビオトープがある。入院まえにはそこに白鷺が来ていた。その近くには妻が歩行練習で歩き回る小さな丘がある。最近の散歩ではカモのツガイが我が物顔で丘周辺を歩いたりお休み鎮座している。数メートルまで近づきスマホカメラを向けると警戒してゆっくりと離れていこうとするが慌てる様子はない。平和な風景である。

あと何年生きるの?

孫が新一年生として小学校に通い始めた。70歳代となった家内が歩行が困難になり数年間のリハビリも効果が思わしくなく、MRIで診断していただいた結果、腫瘍を除去する手術を受けることになった。待ち遠しかった入院手術を受け、手術後はベッドで横になったまま、心電図などの装置、酸素濃度測定装置、その他のケーブルがものものしく装着されていた。覚悟して手術を受けたが、二度と同じ手術を受けたくないと話していた。ほぼ1週間経過して週末に長男家族が孫を連れて見舞いに来てくれた。小学校に通い始めた孫は将来医者になりたいと話しているという。興味深そうに心電図などのディスプレイに表示されるグラフや数字を見ている。「これは何?」質問があったので、患者の様子が正常かどうかを調べる機器であることを説明した。6歳の孫は私に向かって質問した。「ジージーはあと何年生きるの?」この質問は私が日頃自身に問い合わせているが、孫から質問を受けて戸惑った。「高齢者が一人で生活できる健康年齢が72歳と言われていてジージーはもうすぐ75歳。この歳まで生きていると死ぬのは平均的には83歳程度。最後の7ないし8年は介護してもらわないと生活できないかも知れない。」と回答してみたが恐らく孫には通じていない。長男は孫に「そのような質問をしてはいけないんだよ」と優しくたしなめていた。「あと何年生きるの?」を言い換えると「あと何年健康寿命でいられるの?そして何年介護してもらわないといけないの?」となる。家内の入院で人生最後の難題が目前に迫っているのを感じた。

めまいと吐き気

70歳代になって毎年のようにややこしい病気を患っている。2018年は「何かな、何時来るのかな?」と思っていたら早速到来した。2時間ほど車を運転して自宅に駐車し降りたとたんに目眩である。何時もの軽い目眩であれば少しそのままの状態で我慢していれば回復するが今回は治まらない。フラフラしながら転倒しないように壁伝いに玄関を開け、リビングのソファーに座った。目をあけると目眩を感じる。お白湯を少し飲んだら吐き気を急に感じて床にうつ伏せに転がり込んで洗面器を持ってきてもらった。そのまま少し寝てしまったが、目を開けて起き上がる姿勢を取ろうとすると相変わらず強い目眩と吐き気を感じる。2時間が経過し、脳梗塞だったら薬治療の時間制限があることを思い出し、救急車を呼んでもらった。まもなく到着して救急車に乗せられ色々質問され、目を閉じたまま返事をした。左を下にして横向きの姿勢であれば安定しているが、少し上向きに体位を変えようとすると強烈な吐き気を感じる。救急車の隊員が「2時間待たなくても30分から1時間で救急車を呼んでもらっていいんですよ」と優しく家内に話していた。「親切だね」と家内は感激していた。救急病院に到着し、CT、X線、MRIの検査を受けそのまま入院となった。どの検査も異常が見つからないので翌日耳鼻咽喉科の診断を受けることになった。全て段取りよく検査と判定作業が進み、看護師さんも親切で、日本に住んでいて助かったと思った。診断結果は「良性発作性頭位めまい症」で、医者に運動療法説明コピーを渡され自宅でしばらく様子を見ることになった。医者は1月間は運転しないこととアドバイスをくれた。また「最近インフルエンザにかかりましたか?」と最後に聞かれた。自分の周囲にインフルエンザにかかった人が複数人いる。インフルエンザが今回のトラブルの引き金になったのかも知れない。近い将来襲われると予想する脳疾患の予行演習として大変有意義であった。また同じように親切な救急隊と救急病院に助けてもらえたら有り難いのだが。

 

100歳の義理の母

義理の母は100歳を超えて介護施設に入っている。先日家内と会いに行った。家内は両親に可愛がられたようで、母親が大好きである。ベッドに横たわる母親は私の顔を見るなり「長生きしなはれよ」と声を発した。「良く来てくれなはれた」は子供たちが訪問すると何回も発する言葉である。100歳の誕生日を超えて、手や顔の肌の色は健康な色をしており、爪の色を比較すると私のそれより綺麗な色だと感じた。家内は母親の顔をじっと見つめている。話しかけるときは耳元で大きな声を出す。娘の話を聞くと喜びが顔に現れる。「世の中の沢山の人にお世話になったのでそのお礼が出来るまで神様がもう少し時間をくれた」とはなす。神様仏様のお話しが良く口からでて、人生は人により経験することは異なるが最後は皆同じ「死」を迎える、と話す。4名の子供を慈愛深く育て、信心深く、ほぼ毎日のように子供や孫が介護施設を訪問している。「決して人の悪口を言わない」という信念で一生を過ごし、今子供たちに愛される100歳である。

貴ノ岩集団暴行

貴乃花理事を降格させる提案を評議委員会に付議することが決まったようだ。今回の暴行事件の背景は集団リンチである。

・集団リンチの直接の引き金は貴ノ岩が横綱を倒す力を付けてきたことにある。

・白鵬をトップに据えるモンゴル勢は貴ノ岩の親方が貴乃花であることに脅威を感じている。理由は貴ノ岩が本気で勝負をするように仕込まれているから。その結果白鵬は今後優勝を積み重ねることが望めなくなると予感している。

・そこでモンゴル勢の意向を汲むように貴ノ岩の説得を試み、その結果リンチを日馬富士が実行した。白鵬はリンチを黙認し、貴ノ岩を自分の意向に従うように仕向けた。

・貴乃花は部屋の力士が今後ともモンゴル勢に敵視されることを十分感じている。稀勢の里が日馬富士との取り組みで大けがを負い、その後思うように回復していない。これもモンゴル勢の作戦だったのかも知れない。貴ノ岩についても今後力士として復活できなければ、モンゴル勢の一致団結を誇示する絶好の先例となる。日馬富士はモンゴル勢の先方の役割を完璧に果たした。

・貴乃花が事件の背景を話さない理由は、勝負師としてプライドがあるからで、モンゴル勢の談合はいずれジャーナリズムが明らかにするだろうと考えている。本来は相撲協会が自己改革すべきだが、トップは談合を阻止する組織改革に取り組む意志が欠如している。

モンゴル勢の忖度は白鵬を頂点としている。従って白鵬が横綱である限り今後とも明に暗に集団リンチが発生する可能性が高い。今後白鵬の相撲を見たいとは思わない。上手に取り組みを演技していると疑う目しか持ち合わせていない。貴乃花部屋の力士に声援を送るのは無論である。

恩師の告別式

寒さが身にしみる冬の朝に自宅を出て、電車を乗り継いで五反田周辺の斎場に赴いた。恩師の告別式に出席するために夫婦で出かけた。斎場では6組の告別式が同時に準備されていた。訪問者は祭壇に向かって左側の椅子に座るように案内され、右側の席には親戚の方々がお座りになった。確か天台宗の副館長と案内があったと思うが、読経が10時から始まった。20分もすると家族の焼香、親戚の焼香、に続いて参列者の焼香となった。参列者は全体で50名程度であった。斎場では線香の煙と臭いで風邪気味の家内が咳き込んでしまい、一時室外に待避した。読経が終わると最後の別れの儀式となった。全員で順にお棺に花を入れて別れの挨拶をした。娘さんが我慢できなくて嗚咽していた。喪主の挨拶が印象的であった。2年前に奥様を亡くしお一人で暮らしていた先生を新築の自宅に引き取り、昼はデイサービスで、夜は家族と同じ家で過ごし、孫と一緒の生活を送ることができた。孫5名は先生が功績を挙げて表彰されたイベントに関連した名前をつけた。また85歳で他界された先生が大学院生時代に製作したディジタル交換機が未来遺産として登録されたことも紹介された。息子さんは精一杯高齢の先生をお世話されたことがお話しの様子から感じられた。お幸せな人生を送られた恩師は天国で満足されているに違いない。